ドイツのシリコンバレー・ミュンヘン ― ビール醸造所の跡地が特殊半導体の開発センターに ―

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2021年10月22日

【文:熊谷 徹】

ドイツ南部、バイエルン州都のミュンヘンでは、アップル、グーグル、IBMなど米国のハイテク企業が次々と進出したり拠点を拡大したりしており、ITクラスターが生まれつつある。その理由はこの町に製造業、IT業界の企業が集中していることや、大学、研究機関など「知的インフラ」の充実だ。

アップルがミュンヘンに半導体開発センター開設へ

2021年3月10日、アップルは「ミュンヘンに欧州最大の特殊半導体デザインセンターを建設する」という計画を発表した。同社は約10億ユーロ(1300億円・1ユーロ=130円換算)を投じて、3万平方メートルの敷地に40ヶ国からの約1500人のエンジニアが働く拠点を建設する。ミュンヘン中央駅に近いカールシュトラーセの建設予定地は、元々シュパーテン・ブロイのビール醸造所だった。バイエルン州の伝統企業の跡地が、21世紀の最先端技術の開発拠点に生まれ変わる。
アップルはこの拠点で第5世代移動体通信(5G)の実用化に欠かせない半導体などを開発する。同社はすでに2015年に「ババリアン・デザイン・センター」を開設し、iPhone、iPad、アップルウォッチなどに使われる特殊な半導体を開発してきた。ここでは約350人の技術者が働いていたが、今回アップルは半導体開発拠点を大幅に増強することになる。
私は「ババリアン・デザイン・センター」でスマートフォン用の半導体開発に携わっていたインド人を知っている。彼はサムソンからヘッドハンティングで引き抜かれた技術者で、ドイツ語は一言も話せないが、ミュンヘンを拠点として世界中を飛び回って働いていた。「毎月イスラエルに行っている」という言葉に、ハイテク立国イスラエルとミュンヘンの結びつきを感じた。
グーグルも2023年までに、やはり中央駅に近いアルヌルフシュトラーセに新しい開発拠点を設置する。同社は、元々ドイツポスト(郵便会社)が小包の集積所として使っていた「ポスト・パラスト」という建物を買い取って改装する。同社はミュンヘンにすでに拠点を持っていたが、新オフィスが完成すれば、従業員数は大幅に増える。新拠点の敷地面積は約5万平方メートル。エンジニアら約1500人の社員が、ここでクロームなどソフトウエアの開発・研究などに携わる。
米国のIT大手IBMは、2017年にミュンヘン北部に人工知能ワトソンに関するグローバル研究センターを開設した。同社はここでワトソンを使ったIoT(物のインターネット)の技術について研究するだけではなく、個々の法人顧客のニーズに合わせたソリューションを開発し、販売する。このセンターの開設に伴い、IBMはミュンヘンで働くエンジニアの数を300人から約1000人に増やした。
またマイクロソフトのドイツ本社もミュンヘンにある他、中国のファーウェイの研究所もこの町に置かれている。アマゾンも2020年ミュンヘン北部の大規模な建物に移転してきた。

知的インフラが充実した町

なぜ米国のIT企業が次々にミュンヘンに進出しているのだろうか。その理由の一つは、この町にミュンヘン工科大学(TUM)、ミュンヘン大学(LMU)、ミュンヘン応用科学高等学校、ドイツ連邦軍大学、フラウンホーファー研究所などの研究機関が多く、IT関係の人材が豊富であることだ。
特にTUMは関連事業としてスタートアップ企業を振興するプロジェクト「UnternehmerTUM」を実施し、在学中に新しいテクノロジーを開発した学生が起業するための支援事業を行っている。2002年にある企業人の出資によって生まれたこのプロジェクトでは、約300人のスタッフが学生たちに起業に関するアドバイスを行い、毎年約50社のスタートアップ企業を世に送り出している。
ミュンヘンでは約13万人が大学か高等学校で学んでおり、その内20.9%にあたる約2万8000人が外国人だ。
ミュンヘンの特徴の一つは、特殊なスキルや専門知識を持つ高学歴の外国人が多いことである。
2020年にミュンヘンの企業で働いていた就業者の内、大学または高等学校を卒業した学歴を持つ市民の比率は、37.1%。シュトゥットガルト(33.6%)、フランクフルト(30.8%)、ベルリン(28.9%)など他都市を上回る。

物づくり企業・IT企業がクラスターを形成

さらに、ミュンヘンおよびバイエルン州が州政府の支援の下に、重要な物づくり拠点・IT拠点として成長し多くの企業が集まっていることも、米国のIT企業を吸い寄せる理由の一つだ。ミュンヘンには欧州最大の電機・電子メーカー、シーメンスの本社がある他、BMWの本社もある。さらにバイエルン州北部のインゴルシュタットにはアウディの本社もある。シーメンスはデジタル部門を拡大しつつあり、スマート工場をはじめとするIoT関連事業は同社にとって重要性を増している。ドイツ最大の半導体メーカー、インフィニオン本社もミュンヘン郊外にある。
この結果ミュンヘンにはIT企業や自動車部品メーカーなどが次々に集まってクラスターを形成している。日本企業としてはNTT DATA Deutschland社が拠点を持っている。
またミュンヘンにはフランクフルトに次いで乗降客数が多いドイツ第2の国際空港があるほか、高速道路、鉄道など交通の便が良いことも、企業にとっては好都合である。
私はある企業人から、「グーグルやアップルがミュンヘンの拠点を大幅に増強する理由の一つは、自動車メーカーとの協働の可能性を探るためだ。自動車メーカーにとって、自動運転車やコネクテッド・カーの開発つまりモビリティーのデジタル化は、EV開発以上に複雑で多額のコストを必要とする。その意味で、自動車メーカーの本社が多いドイツ南部に拠点を持つことは、米国のIT企業にとっては重要なのだろう」という声を聞いたことがある。
現在世界中の自動車メーカーは、深刻な半導体不足に苦しんでいる。その意味で特殊な半導体への需要は高まるばかり。アップルが巨額の投資を行って、ミュンヘンに大規模な半導体デザインセンターを作る理由もそこにあるのかもしれない。
一方米国のIT企業がシリコンバレーでエンジニアたちに支払う高給に比べると、ドイツでの給料は比較的安い。これも米国企業にとっては魅力であるはずだ。
今後もミュンヘンそしてバイエルン州には、「知の力」を求めて多くの企業がやって来るだろう。30日間の有給休暇、1日10時間に制限された労働時間など、米国やアジアに比べた労働条件の良さは、優秀な頭脳をドイツに引きつける。バイエルン州政府が第二次世界大戦後に行ってきた民間経済への支援、振興策は、農業が中心だった地域に製造業・ITの混合クラスターを形成し、見事に開花しつつあると言うことができる。

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熊谷徹氏プロフィール

1959年東京生まれ。1982年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、NHKに入局。日本での数多くの取材経験や海外赴任を経てNHK退職後、1990年からドイツ・ミュンヘンに在住し、ジャーナリストとして活躍。ドイツや日独関係に関する著書をこれまでに20冊以上出版するだけでなく、数多くのメディアにも寄稿してドイツ現地の様子や声を届けている。