ドイツ政府が量子コンピューター技術の開発と実用化に尽力

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2021年7月15日

【文:熊谷 徹】

2021年6月15日、あるニュースがドイツだけでなく欧州の科学界や産業界の注目を集めた。シュトゥットガルト近郊のエーニンゲンのフラウンホーファー研究所に、欧州で初めて、商業目的にも利用できる量子コンピューターが設置されたのだ。IBMの「Qシステム・ワン」と呼ばれるこの量子コンピューターは、科学者だけではなく産業界に対しても公開され、研究や実験に使うことができる。

飛躍的な計算能力

この日アンゲラ・メルケル首相もリモート会議システムを通じてフラウンホーファー研究所での設置式典に参加し、金色の配線や部品を持つ「Qシステム・ワン」を視察した。首相は「ドイツは量子コンピューターに関する基礎研究では、世界でトップクラスの水準にあるが、今後は量子コンピューターの経済的な応用力をも強化したい。その意味で今日は重要な日だ」と語った。
量子コンピューターの計算能力は、従来のコンピューターを大幅に上回る。従来のコンピューターでは、0と1のどちらかの状態を表わすビットという計算単位が使われている。だが量子コンピューターでは、0と1の間に多数の「重ね合わせ状態」を生み出し、量子ビット(Qビット)という新しい単位を使って計算を行うので、これまで数年間かかっていた計算を、数時間で終えることができる。エーニンゲンに設置された量子コンピューターの計算能力は27Qビットだが、IBMは2年後に1000Qビットの計算能力を持つ量子コンピューターを開発する方針だ。
量子コンピューターは、医療、化学、金融サービス、新素材の開発、サイバーセキュリティ―、物流、農業など様々な分野で効率や生産性を飛躍的に高めると期待されており、21世紀の最も重要なテクノロジーの一つだ。

ドイツ政府が多額の予算を投入

このためドイツ連邦教育研究省は、2018年に「量子テクノロジー・基礎研究から市場へ」という実用化のための行動計画を始動させたほか、2020年にハードウエアやソフトウエアの開発を主眼とする「量子コンピューターに関する戦略的イニシアチブ」を開始した。
さらにアニヤ・カリチェク連邦教育研究大臣は、2021年1月6日に「量子コンピューター・ロードマップ」を公表し、この技術の開発と実用化のために、今後5年間に連邦予算から20億ユーロ(2600億円・1ユーロ=130円換算)を投資することを明らかにした。政府の目標の一つは、2026年までに国産の量子コンピューターを製造することだ。
量子コンピューターの開発では、米国と中国が先行している。IBMが世界初の商用量子コンピューター「Qシステム・ワン」を開発したのは2019年1月。同年10月にはグーグルが「従来のスーパーコンピューターならば計算に1万年かかる問題を、量子コンピューターを使って3分20秒で解くことに成功した」と発表している。米国政府や中国政府は量子コンピューター技術の開発と実用化のために、多額の資金を投じている。

経済界も強い関心

ドイツには米国と違って、グーグルやIBMのように潤沢な資金を持つ巨大IT企業が存在しない。このため、量子コンピューターのような新技術の開発と実用化には、国の支援が不可欠なのだ。
カルリチェク大臣は、2021年1月6日に発表した声明の中で一連のイニシアチブの背景を「量子コンピューターの研究開発について他国の技術に依存せず、ドイツの技術主権を確保することが目的だ。我々はこの技術に関して第1リーグのプレーヤーになることを目指す」と説明している。そのための第一歩として、ドイツ企業は1ヶ月あたり1万1621ユーロ(151万円)の使用料を払えば、今回エーニンゲンに設置された量子コンピューターを使って実験を行うことができる。いわば新しい技術に習熟するための「自動車教習所」のようなものだ。
ドイツ経済界でも量子コンピューターへの関心が高まっており、6月9日には化学メーカーBASF、自動車メーカーのフォルクスワーゲンとBMW、電機・電子メーカーのジーメンス、ソフトウエアメーカーSAP、製薬会社ベーリンガー・インゲルハイムなど10社の大手企業が「量子技術応用コンソーシアム(Qutac)という団体を結成した。これらの企業はドイツでの量子コンピューターの実用化の先駆者となることを目指している。
日本政府も量子コンピューターを、「我が国を21世紀に知識集約型社会に移行させる上でのコア技術」として重視している。2020年1月には、統合イノベーション戦略推進会議が、「量子技術イノベーション戦略」という報告書を発表し、製造業など様々な分野でこのテクノロジーの活用を目指すという姿勢を打ち出した。日本政府は、2020年度にこの技術の開発のために215億円を投じる方針だ。
特に医療分野では、量子コンピューターにかけられている期待が大きい。たとえば量子コンピューターによって患者のゲノム分析を短時間で行い、患者に最も適した治療方法を編み出すテイラーメード方式の治療が可能になるかもしれない。創薬のシミュレーションも、量子コンピューターによって効率的に実施できる可能性がある。
日独が量子コンピューターの開発と実用化に向けて本格的に動き出したことは、この先端技術をめぐる競争を激化させ、経済や社会で実際に使用される日をさらに早めるかもしれない。

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熊谷徹氏プロフィール

1959年東京生まれ。1982年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、NHKに入局。日本での数多くの取材経験や海外赴任を経てNHK退職後、1990年からドイツ・ミュンヘンに在住し、ジャーナリストとして活躍。ドイツや日独関係に関する著書をこれまでに20冊以上出版するだけでなく、数多くのメディアにも寄稿してドイツ現地の様子や声を届けている。