コロナワクチン開発でドイツのイノベーション力を世界に示したビオンテック

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2021年7月1日

【文:熊谷 徹】

ビオンテックは、ドイツのスタートアップ企業の中で最も成功した例の一つとして、歴史に残るだろう。同社は世界で初めて新型コロナウイルス・ワクチンの承認を受け、何百万人もの人々の命を救っている。ビオンテックは、大学での長年の医学研究が人類にとって重要な製品を生むベンチャー企業として結実した例であり、技術革新力を成長の源泉とする、ビオンテックは、ドイツの中規模企業(ミッテルシュタント)の鑑である。

ガンの免疫治療法に関する深い知識

トルコ系ドイツ人の科学者ウウル・シャーヒン氏と妻のオズレム・テュレジ氏が、オーストリアの免疫学者クリストフ・フーバー氏とともにマインツにビオンテックを創設したのは、2008年。ビオンテックは、元々ガンの免疫治療のための医薬品開発を目的として作られた会社だった。
最高経営責任者(CEO)のシャーヒン氏はケルン大学とザールラント大学で医学を修め、ガンの免疫治療について研究した。1991年から2000年までケルン大学病院とザールランド大学病院に勤務し、悪性腫瘍に関する研究を続けた。1999年には、分子医学と免疫学で博士号を取得している。
彼の最大の目標は、リボ核酸(RNA)を使ったワクチンを開発することだった。このワクチンは、ガン細胞の増殖を抑えて縮小させるための免疫機能を、人間の身体から引き出す。つまり彼は副作用が強く、患者にダメージを与える化学物質を使わずに、人間が元々身体の中に持っている免疫機能を誘発、促進することによって、ガンと戦うことを目指していた。
シャーヒン氏は2003年にマインツ大学の悪性腫瘍ワクチンセンターの責任者に就任。2006年からはマインツ大学第3病院のガン研究部の教授を務めた。シャーヒン氏は、2010年には同大学で悪性腫瘍実証研究センター(TRON)を創設する。TRONの目的は、医療の第一線でニーズが高いガンを治療するための医薬品と診断方法の開発だった。ここでもシャーヒン氏は、研究の重点をガンの免疫治療に置いた。彼は2001年にはガニメド薬品という企業を興し、食道ガンや胃ガンの治療に使われる医薬品を開発している。
妻のテュレジ氏は1992年にザールラント大学で医学博士号を取得。彼女の研究の重点も、ガンに特徴的な分子の特定と免疫療法の開発だった。2002年にはマインツ大学で分子医学に関する教授の称号を取得している。さらにマインツ大学第3病院で、ガンの免疫治療に関する研究に従事した。
テュレジ氏は、2011年からドイツ連邦教育研究省の個別免疫治療法研究クラスターの座長を務めている他、欧州最大のガン研究機関の一つであるガン免疫治療協会(CIMT)の会長でもある。
テュレジ氏はマインツ大学でガン研究に携わっていた頃から、「我々は研究成果を、臨床の現場でガン患者を助けることにもっと生かすべきだ」という願いを抱いていた。この希望が、夫のシャーヒン氏と共にビオンテックの創設につながった。つまりテュレジ氏は科学技術が象牙の塔にこもるのではなく、病気の克服、症状の改善など具体的な成果を生むために使われることを重視したのだ。
ビオンテックはドイツ連邦教育研究省が2005年に始めた研究助成プログラム「バイオテクノロジー起業キャンペーン(GO-BIO)」から資金援助を受けて生まれた企業の一つである。同社は、1億8000万ドル(198億円・1ドル=110円換算)の資本金で、RNA技術により患者の免疫機能を促進するガンの治療薬の開発を目的として、スタートを切った。同社は2014年以降、科学雑誌ネイチャーなどに次々に論文を発表するとともに、ガン治療技術に関する様々な特許を取得。2019年10月には米国のテクノロジー市場ナスダックに上場。同社はナスダックに上場した8社のドイツ企業の1社となった。

全ての研究資源をコロナワクチン開発に投入

だがビオンテックに大きな転機をもたらしたのは、2020年1月に中国で新型コロナウイルスが拡大したことだ。シャーヒン氏は武漢での感染爆発が世界中に広がってパンデミックに至ると直感し、ビオンテックの全ての研究開発努力を、新型コロナウイルスのワクチン開発に投じることを決めた。(シャーヒン氏とテュレジ氏は、ある日自宅で朝食を取っている時に、このアイデアを思いついたと言われる)彼らはこの開発プロジェクトを「ライトスピード(光速)」と名付けた。
ビオンテックは、当初からこの開発計画をグローバルな規模で実行した。2020年3月には、中国での研究開発について復星医薬(本社・上海)、それ以外の地域については米国のファイザー(本社・ニューヨーク)と提携した。
だがワクチンの要となる技術を生み出したのは、ビオンテックのシャーヒン氏のチームである。同社がBNT162b2と命名したワクチンには、当時すでに確立されていたメッセンジャーRNA(mRNA)という技術が使われている。
新型コロナウイルスは、表面にあるスパイク(鉤)のような形をした蛋白質を使って、人間の細胞を感染させる。BNT162b2は、このスパイク蛋白質の働きを弱める抗体を作り出すことによって、新型コロナウイルスによる感染を防ぐ。
同社は4月にロベルト・コッホ研究所でワクチンの審査・承認を担当するパウル・エアリヒ研究所とバーデン・ヴュルテンベルク州医師会の倫理委員会から、コロナワクチンに関する治験を実施するための許可を得た。同社は欧州、米国、中国、南米、南アフリカでグローバルな研究活動を開始し、2020年4月から11月までにこれらの地域で、16歳以上の市民4万3500人に対する治験を行った。治験対象者の約40%は、55歳以上の市民だった。

わずか11ヶ月間でコロナワクチン開発に成功

ドイツ連邦政府は2020年9月にビオンテックに3億7500万ユーロ(488億円)を融資することによって、ワクチン開発を支援した。また欧州投資銀行も、同社に1億ユーロ(130億円)の融資を行っている。
その結果ビオンテックは、2020年11月に「ファイザーと共同開発したワクチンBNT162b2は、新型コロナウイルスの発症防止の上で、少なくとも95%の有効性がある」と発表した。95%の有効性があるということは、「ワクチンを接種した集団では、ワクチン未接種の集団に比べて、発症する確率が95%下がる」ということを意味する。
ビオンテックのBNT162b2は、2020年12月2日に英国政府の医薬品局から緊急承認を受け、世界で初めて承認されたコロナワクチンとなった。パンデミックによる死者と重症者数の増加に苦しんでいた英国政府は、2021年1月2日に接種を開始した。続いて米国の食品医薬品局(FDA)も、12月11日にこのワクチンを緊急承認。また欧州医薬品庁(EMA)も12月21日にビオンテックのワクチンを承認し、12月27日にEU加盟国での接種が始まった。BNT162b2は、世界保健機関(WHO)が最初のワクチンリスクに載せた製品でもある。
世界で最も積極的かつ迅速にファイザー・ビオンテックのワクチンを投与したのは、イスラエルである。2020年に同国のベンヤミン・ネタニヤフ首相(当時)は、ファイザーのアルバート・ブーラCEOに約30回電話をかけて直談判。その結果、イスラエルはワクチン接種者に関する健康データをファイザーに提供する他、ワクチン1本あたりにつきEUの2倍近い値段を払うことと引き換えに、イスラエルでのワクチン接種率が人口の93%に達するまで優先的にワクチンを供給することで合意した。
その結果、イスラエルは世界一のワクチン先進国となり、新型コロナウイルスによる死者数を激減させることに成功した。同国で接種が始まったのは2020年12月19日。同国の死者数は、2021年2月25日には60人だったが、それ以降死者数は急激に減り、6月1日には1人となった。イスラエルでは6月9日の時点で、人口の59.4%がワクチン接種を完了しており、人々はコロナ前とほぼ同じ日常生活を送っている。
ビオンテックのワクチンは、約65ヶ国で少なくとも部分的な承認を受けている。EUは2020年8月から2021年5月までに43億6500万本のコロナワクチンを製薬会社などから注文しているが、その内55%にあたる約24億本が、ファイザー・ビオンテックの製品である。ドイツで2020年12月27日から2021年の4月29日に投与された2877万本のワクチンの内、74.1%がファイザー・ビオンテックのワクチンだ。ビオンテックは今年の末までに年間30億本のワクチンを生産できる体制を整える方針だ。
同社の2021年の第1四半期の売上高は、前年同期に比べて73倍に増えて、20億4840万ユーロ(2662億円)となった。
ビオンテックが2021年末までに受注したワクチンの売上高は124億ユーロ(1兆6120億円)に達する見通し。
シャーヒン夫妻はコロナワクチン開発の功績により、2021年3月にフランク・ヴァルター・シュタインマイヤー大統領から連邦功労十字章を授与されている。

ビオンテックの成功の陰にイングマール・ヘアの基礎研究

コロナ発生前には、ワクチンの開発に数年間かかるのが常識だった。ビオンテックのように、発案からわずか11ヶ月間で当局の承認にこぎつけたプロジェクトは、世界で初めてである。
だが医学者の間では、「この迅速な開発を可能にしたのは、ドイツに長年にわたる基礎研究の積み重ねがあったことだ。そう考えると、コロナワクチンが11ヶ月で開発されたのは驚きではない」という意見もある。この背景には、シャーヒン氏がそれまでにガンの免疫治療について深い知識を持っていたことに加えて、ドイツが早くからmRNAの医薬品開発への利用を研究していたという事実がある。
mRNAを利用して抗体を作り、病気の治療に役立てる技術について、世界で最初に特許を取得したのはテュービンゲン大学の生物学者イングマール・ヘア氏である。彼は1999年に同大学の免疫学・細胞生物学研究所で、mRNAワクチンを使った病気の治療法についての論文による博士号を取得している。
ヘア氏は1999年にmRNAによって抗体を作り、ガン細胞などを消滅させる技術について特許を取得し、2008年と2009年にガンに対するワクチンを開発するための臨床試験も行っている。
ヘア氏は2000年に他の学者たちとともに、テュービンゲンにバイオテクノロジー企業キュアバックを創設した。彼は一時キュアバックのCEOに就任し、2020年春以降はコロナワクチンの開発に取り組んでいたが、同年3月に脳梗塞のために重症に陥り、現役を退いた。同社は現在もEMAからワクチンの承認を得るための努力を続けている。ドイツの論壇には、「ヘア氏がコロナ・パンデミック勃発から21年前にmRNAの医薬品への利用に関する基礎研究で成功を収めていたことは、ノーベル医学賞に値する」という声もある。
つまりヘア氏のmRNAに関する基礎研究がなかったら、シャーヒン氏がわずか11ヶ月間でコロナワクチンを開発することは困難だった。市民やメディアから注目されない地道な基礎研究が、ビオンテックに成功をもたらしたのだ。この事実は、ドイツの科学研究の裾野の広さをも示している。
過去においてドイツの科学界については、「基礎研究の水準が高くてもなかなか実際のビジネスに結びつかない」という指摘があったが、ビオンテックの成功はそうした「先入観」を打破するものだ。シャーヒン夫妻の業績に触発されて、彼らの後に続く科学者たちが今後も現われるに違いない。

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熊谷徹氏プロフィール

1959年東京生まれ。1982年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、NHKに入局。日本での数多くの取材経験や海外赴任を経てNHK退職後、1990年からドイツ・ミュンヘンに在住し、ジャーナリストとして活躍。ドイツや日独関係に関する著書をこれまでに20冊以上出版するだけでなく、数多くのメディアにも寄稿してドイツ現地の様子や声を届けている。