なぜドイツ政府は飛躍的イノベーション機構を創設したのか

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2021年5月25日

【文:熊谷 徹】

ドイツ政府は、これまでの常識を覆す画期的なアイデアを持つ市民や企業の研究開発プロジェクトに強力な資金援助を行うなど、イノベーションを積極的に振興している。今回はそのために政府が創設したある機関について、詳しくお伝えしよう。

日独の学術交流を振興するドイツ 科学・イノベーション フォーラム東京(DWIH東京)は、2021年3月9日に、DWIH Coffee Talk #1「日本の第6期科学技術・イノベーション基本計画―今後の日独協力に向けて」というオンライン・トークを開催した。
日本の内閣府大臣官房の佐藤文一審議官とドイツ連邦共和国大使館のローター・メニケン科学技術担当参事官が、両国にとってイノベーションが持つ意味、21世紀のイノベーションの方向性、日独の科学者が協力できる分野などについて、約1時間にわたり意見を交換した。
YouTube DWIH COFFEE TALK #1「日本の第6期科学技術・イノベーション基本計画 ― 今後の日独協力に向けて」
この中でメニケン参事官は、ドイツ連邦教育研究省(BMBF)と連邦経済エネルギー省(BMWi)が2019年12月16日にライプツィヒに創設した、飛躍的イノベーション機構について言及した。この組織は、独創的なアイデアを持つ個人や組織を国が支援する、ドイツでも画期的な試みだ。この機構のドイツ語の正式名称はBundesagentur für Sprunginnovationだが、SPRIN-Dという略称も使われている。

SPRIN-Dは革命的なアイデアを募集し、支援する

飛躍的イノベーションとは、それまでの常識を根本的に変え、経済活動や市民生活にとって大きな利点をもたらす技術革新のことだ。
たとえばドイツで言えば、19世紀に発明された小型の内燃機関を使った四輪自動車、鎮痛・解熱剤アスピリン、20世紀に開発されたリニアモーターカーの技術、音声圧縮技術(MP3)などが飛躍的イノベーションにあたる。
我々の生活スタイルを大幅に変えたインターネットやスマートフォン、リモート会議、今日多くの自動車メーカーが実用化へ向けてしのぎを削っている自動運転に関する技術も飛躍的イノベーションの産物だ。英語ではdisruptive innovation(破壊的イノベーション)とも呼ばれる。
SPRIN-Dは、市民や企業から独創的なアイデアを広く公募し、大きな潜在性を秘めると思われるプロジェクトに連邦政府の資金援助を斡旋する有限会社だ。
ドイツは19世紀以降、様々なイノベーションを行ってきた。しかし第二次世界大戦以降は、米国やイスラエルが先んじている。前述のインターネットやスマートフォン、リモート会議の技術を実用化、市場化したのは、米国である。自動運転技術の開発でも、米国とイスラエルが進んでいる。
特に米国のイノベーションを加速しているのは、国防高等研究計画局(DARPA)という組織だ。1958年に創設されたこの機関は、米国の飛躍的イノベーションの重要な源泉の一つである。
たとえばDARPAは、安全保障・軍事上の要請から、インターネットの前身となる技術や、全地球測位システム(GPS)を開発した。SPRIN-Dも、DARPAのように独創的なアイデアを市民や企業から吸い上げて、飛躍的イノベーションを促進しようとする組織だ。ただしSPRIN-DはDARPAとは異なり、軍事技術は担当しない。対象は、あくまで民生用技術のイノベーションに限られる。(安全保障、特にサイバー攻撃からの防御に関する独創的なアイデアを募集するのは、2020年にハレに創設された「サイバー防御のためのイノベーション機構」である)

連邦政府がベンチャーキャピタルを代替

ドイツでは、米国やイスラエルに比べるとスタートアップ企業が少ない。優秀な人材は労働条件が厳しい自営業よりも、福利厚生が充実している大企業で働こうとする傾向が強い。さらにドイツでは、スタートアップ企業に投資するベンチャーキャピタルが、米国や英国、イスラエルよりも少ない。開発プロジェクトが頓挫するリスクがあっても、スタートアップ企業を支援しようとする投資家が少ないのだ。
このためエンジニアらが独創的な技術を実用化するために起業しても、そのテクノロジーで売上高や収益を確保できるようになるまで、研究費を調達するのが困難である。この長く暗いトンネル(死の谷とも呼ばれる)で起業家や発明家が挫折するのを防ぐために、SPRIN-Dは有望なアイデアを選んで、連邦政府の予算を回す。いわば金の卵を発掘し、飛躍的イノベーションにつなげるための「仕掛け人」である。
日本政府がイノベーションを促進するために導入した「ムーンショット型研究開発制度」とも共通する点がある。ムーンショット型研究開発制度がイノベーションの対象を「早期の疾患の予測・予防」や「人間と共生するロボットの実現」など7つの項目に絞っているのに対し、SPRIN-Dは新しい技術を特定の分野に制限していない。
SPRIN-Dを率いるのは、ライプツィヒのソフトウエア・エンジニアで起業家のラファエル・ラグーナ・デ・ラ・ヴェラ氏(56歳)。彼は16歳の時に、スタートアップ企業を興した。Dicomputer、 micado、Open- Xchange AGなど様々なIT関連企業を興したり、投資したりしてきた。デ・ラ・ヴェラ氏は特にオープン・ソース技術の先駆者として知られている。様々な企業を生み出し、成長可能性を持つ企業に投資してきたデ・ラ・ヴェラ氏は、飛躍的イノベーションを誘発するためのSPRIN-Dを率いるリーダーとして、うってつけの人物である。
彼は「ドイツは過去75年間に、様々なテクノロジーを生み出してきた。この歴史を復活させるため、我々は心配性を捨てて、新しい勇気を持つ文化を持たなくてはならない。新技術を開発する上で、失敗はつきものだ。失敗を恐れてはならない。我々の子どもたち、地球に住む全ての動植物の未来を良くするために、みんなで力を合わせよう」と語っている。

400件の中から12件のプロジェクトを採用

飛躍的イノベーションに関するアイデアを実用化したいと考えている個人や企業は、まずSPRIN-Dからの15の質問に答えなくてはならない。その質問票には、「あなたのプロジェクトは何に貢献しますか?ドイツや欧州にどのような利点をもたらしますか?」、「実行可能性やテスト結果を示す書類はありますか?」、「プロジェクトの実現に必要な費用と時間は?」などの質問が含まれている。
SPRIN-Dの技術者たちが応募者から提出された書類を審査し、「このプロジェクトの実現可能性は高く、実現した場合の公共の利益は大きい」と判断した場合には、連邦政府が開発プロジェクトに資金を出す。SPRIN-Dの活動は2019年から10年間実施されるが、連邦政府はそのために10億ユーロ(1300億円・1ユーロ=130円換算)の予算を準備した。
SPRIN-Dの審査は、「狭き門」である。同機構には2020年に約400件の研究開発プロジェクトが寄せられたが、SPRIN-Dが連邦予算による支援を認可したのは、12件。わずか3%の「合格率」である。寄せられたプロジェクトの97%が拒否されるという事実は、SPRIN-Dが応募者に対して実現可能性や経済・社会への貢献度などについて、厳しい要求を行うことを示している。
SPRIN-Dはこれまでに、どのようなプロジェクトを採用したのだろうか。SPRIN-Dの支援の下に進行中の開発プロジェクトをいくつかご紹介しよう。

(1) アルツハイマー型認知症治療薬

デュッセルドルフのハインリヒ・ハイネ大学のディーター・ヴィルボルト教授は、新しい手法でアルツハイマー型認知症を治療するための薬を開発している。ヴィルボルト氏は、ユーリッヒ研究センター内の構造生物化学研究所の所長も務めている。彼が考えている治療薬の革新性は、アルツハイマー型認知症の患者の脳に見られる蛋白質の異常を、従来のような免疫療法ではなく、物理的・科学的な方法によって取り除こうとする点だ。しかも教授は、比較的価格が低く、投与しやすい経口薬を開発することを目指している。

ヴィルボルト教授は、健康な市民に薬を服用させて安全性を調べる第1段階の治験を2019年に終えている。同氏は、2022年にアルツハイマー型認知症の患者に実際に薬を投与して効果を調べる第2段階の治験を開始し、2026年に結果を得る予定だ。現在アルツハイマー型認知症の患者は、全世界で30万人にのぼる。ヴィルボルト教授は、この治療法が成功すれば、パーキンソン病や糖尿病の治療にも生かせる可能性があると語っている。SPRIN-Dは2021年2月4日に、このプロジェクトを支援することを発表した。

(2)アナログ・コンピューター

フランクフルトのITエンジニアであるベアント・ウルマン氏は、現在主流のデジタル・コンピューターに代わるアナログ・コンピューターを開発している。現在ITの世界では、人工知能の開発に伴うデジタル技術の限界性が指摘されており、多くの科学者・エンジニアがアナログ技術を使うコンピューターについて研究している。ウルマン氏は「アナログ・コンピューターの計算速度は、デジタル・コンピューターよりも10万倍速く、消費するエネルギーは10万分の1で済む」と説明する。ウルマン氏は、「アルゴリズムに基づくデジタル・コンピューターとは異なり、アナログ・コンピューターでは様々な演算処理が同時進行で行われるので、人間の脳や神経に近くなる。コンピューターの未来は、アナログ方式にある」と強調する。同氏は、「10~15人のチームが2年間取り組めば、アナログ・コンピューターを開発できる」と語っている。

(3)超高度・陸上風力発電タワー

ライプツィヒのエンジニアであるホルスト・ベンディクス氏は、高さが250メートルの陸上風力発電タワーを開発しようとしている。プロペラは高い位置にあるので、常に風を受けて回転する。このため発電量が多くなり、効率性が高くなる。ベンディクス氏は、特殊な鋼管を使い、発電機を低い部分に設置することにより、発電設備全体の重量を50%減らし、建設費用を40%少なくできると説明する。こうすれば、このプロペラから生み出される電力1メガワットあたりの価格を低く抑えることができる。ベンディクス氏は、このプロジェクトを実現するために、「新しい超高度風力発電設備の研究企業」という有限会社を発足させている。

(4)水中のマイクロ・プラスチック除去装置

ケルンのエンジニアであるロラント・ダマン氏は、1980年代から、魚の養殖場などの水質を改善する技術に取り組んできた。彼がこれまでに開発した水質改善技術は、約50ヶ国で約300社の企業によって使われており、ノルトライン・ヴェストファーレン州政府から表彰されている。ダマン氏は現在、海洋や湖沼を汚染している微小プラスチック(マイクロ・プラスチック)を除去するための技術を開発している。Microbubbles-Gasblasenmatrixと呼ばれる方法では、ガスによる気泡を使って水面に浮かび上がらせることで、海洋や湖沼だけではなく排水に含まれているマイクロ・プラスチックをも除去する。

ドイツ政府がSPRIN-Dを創設し独創的なアイデアに多額の連邦予算を投じることを決めたのは、この国で飛躍的イノベーションを促進し、米国やイスラエルとの格差を縮める必要があるという意識が高まっているためだ。21世紀は、各国間で飛躍的イノベーションをめぐる競争が激化する時代になるだろう。その中でSPRIN-Dが重要な役割を果たすことは、間違いない。

 

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熊谷徹氏プロフィール

1959年東京生まれ。1982年早稲田大学政経学部経済学科卒業後、NHKに入局。日本での数多くの取材経験や海外赴任を経てNHK退職後、1990年からドイツ・ミュンヘンに在住し、ジャーナリストとして活躍。ドイツや日独関係に関する著書をこれまでに20冊以上出版するだけでなく、数多くのメディアにも寄稿してドイツ現地の様子や声を届けている。